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つれづれなるままにかきつづっていこうと思いますー。 基本馬鹿話とか小ネタを中心にぼちぼち愚痴を織り交ぜつつ。 一次二次兼用につきお気をつけあそばせ! お暇な方どうぞご覧下さいませ^^
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自分の中でちょっといじめ論議をやってみた。
反感食らうのこわいから以下でたたんでおくよー。

今日実況やります!数日ぶりです!
TOPには「PM8:00~」ってありましたが三時くらいから七時くらいまでにします!すんませんTOPの文字間違えてましたサーセン!

あ、それと改めてニコのほうの動画見直してたら、ちょ、いいいいつの間にか「はすば」タグ…!!わーありがとうございます!嬉しいです!

じゃあ「ハッ、反感だ?ふざけんじゃねえ文句言いまくってやろうじゃねえか」という勇気あるお方はどうぞ以下より…!


まあどうでもいい話ですが。

私は現代日本の道徳に関わる教育方針で何が一番間違ってると思ってるかっていうと、「私達はみんな"同じ"人間なんですよ」という理念が根強いことだと思う。
いじめがよくない。それは何故だ?教育者は「互いの個性を認めることが大事だ」と言う。
だけどその「個性」が存在するのは、私達がみんな"違う"人間だからだ。
と、そこまで考えると、アレ?と思う。じゃあ私達はみんな違うのか?同じ人間ではないのか?
勿論それぞれの意味合いは違って、「同じ人間」というのは身体的な種の話であり、「違う人間」というのは精神的な性格の話なのですが、現代の道徳教育ではそれがごたまぜになっている気がする。

何が言いたいかっていうと、いじめが起こるのはそもそも、
叩く側が叩かれる側の個性を認められないから起こるのではなく、
叩く側が叩かれる側に「自分」を重ねているからではないかと私は思うわけだ。まあ個人的解釈だけど。

人にとって人間というものは二つの分類に分けられる。「自分」と「他人」です。
多少語弊はあるでしょうが、人間は自分のことなら分かりますが、他人のことは分かりません。たとえどんなに気心の知れた中でも、目の前の人間が考えていることなど根本的な問題としてテレパシーでも習得しない限りはできません。つまり普通は無理なんです。
だから人間は他人の考えを推し量るとき「自分」を定規代わりにして、「自分ならこうする」という考えの下相手の考えを読もうとします。

先ほども言ったとおり人間とは皆「違う」生き物であり、その性格は千差万別です。誰一人として全く同じ性格の人間はおらず(いやもしかしたらまれにそういうこともあるのかもしれませんが普通は)、そもそも自分の尺度で相手を測ること自体が間違ってるわけです。だって私とあなたの定規は違うんですから。

それでも特に日本人なんかは他人と同化する傾向が強いですから、「自分」以外にもさまざまな定規を持っている。例えばそれは自分の所属するグループ…「友達の輪」の定規であったり、「クラス」の定規であったり、あるいは私で言うなら「高校生」の定規を持っています。それは同じグループに所属する人間の似たような行動や言動をひとまとめにしたもので、「大体みんなが思ってること」をひとまとめにして作り上げた定規です。

そうなると私達は今度はその「グループの定規」を使って、他人を測ろうとします。だけど再三申しますとおり人間とは皆「違う」生き物であり、その性格は千差万別です。誰一人として全く同じ性格の人間はおらず、そもそもそんな「グループの定規」で相手を測ること自体が間違ってるわけです。だってグループの定規である程度の「普通」は構築されても、それに何一つ当てはまることのない人間は間違いなくいるのですから。

じゃあ「自分の定規」にも「グループの定規」にも当てはまらない場合どうなるのか?いや、そもそも「当てはまらない」と考えないのが人間の悪いところです。あくまで「グループの定規」とはそのグループに所属するいろいろな人間を知らないとできないわけですから、絶対的なものとはいえません。それどころかそんな矮小なもので他人を理解できるほど人間の心理というものは単純なつくりではないでしょう。

この世にいじめが存在するのはそういう自分で勝手に構築した定規を押し付けて、それに当てはまらない人間に対しての所謂「制裁」なのでしょう。叩く側の観点から言えば。
「ああこいつはなんか違う、おかしくないか?じゃあそれを訂正しなければ。いや、むしろそんなおかしい奴なんていなくても問題はないだろう」
考えてもみれば全く持ってばかげた話です。叩かれる側からすればたまったものではありません。
だけど叩かれる側も同じなのです。叩かれる側は叩く側を自分の、そして自分の持つグループの定規で測るから、相手がどうして自分を叩くのか理解できない。そうなると叩かれる側も叩く側を恨むしかできない。行動が違うだけで結局やってることはどっちも一緒です。私が思うにいじめというのは加害者も被害者も、どちらが悪だとかそんな話ではないのではないでしょうか。

昨今の道徳教育で教育者が本当に教えるのは、「個性を認める」とかそういうちっぽけな話ではなく、まずは大衆をまとめて測ろうとするグループの定規では他人を測ることは事実上無理だということです。じゃあどうすればいいのかというと、私達は「自分の定規」と、「相手の定規」。これだけを持てばいいのです。

といっても無理なんですけどね。だって私とあなたは違うから相手の定規など到底理解できない部分もあるでしょう。だから、「個性」なんてちっぽけなものよりその人そのものをまるまる受け入れる心理が人には必要なんだと思います。

「私達は同じ人間」?「個性を認める」?じゃあ教育者はその矛盾を克服して実践できるのか?個性とはもとより認めるためにあるのではありません。むしろ「認める」だなんて上から目線ではいじめなど消滅しないでしょう。私達は個性を認めるのではなく、個性を好きにならなければなりません。

友達の話を聞いて人間の問題点だと感じるのは「私アイツ嫌い。だって○○じゃん」と一面的な相手の欠点で相手をまるまる嫌ってしまうことです。私だってまあそういうことはあります。だけど私はそれで相手のすべてを嫌ってしまうことは勿体無いと思います。偽善だとか言われようとも別に構いませんどうせ偽善ですから。でもそもそもその「嘘」「本当」すらも誰かの、あるいはグループの作った「定規」によって決められたことです。じゃあ私の定規ではその偽善を「本当」にしてしまえばいい。私は偽善だろうとなんだろうと博愛主義精神を掲げていきたい。いつか「私に嫌いな人なんて存在しない」と言える人間になりたい。

私達は人を「人」として見るのではなく、人を「他人」として見るべきです。突き放した言い方かと思われるかもしれませんが、相手を本当に「受け入れる」ためには、「相手がどう思うか、自分の気持ちになって考えなさい」なんてむしろいじめの推奨にしかなってないのではないでしょうか。自分の気持ちになって考えたって相手の気持ちなんてわかりゃしません。そんな回りくどい方法使うくらいなら直接「どう思いますか?」って聞いて回ったほうがよっぽど効率的です。

ああまた何言いたいんだかわかんなくなってきましたけど!とりあえず誰が何言おうと勝手に自分の価値観押し付けて人嫌うなんざ自分はやらねえよっていう意思表示だよ!orz
ただまあ私の場合ホントになんでも受け入れちゃうのがデフォルトだからたとえ目の前でいじめが起こってても止めないのが難点だけどな!orz
小学生の頃なんだっけ、割といじめられてる子と普通に仲良くしてたら「なんでアンタはいじめる側ともいじめられる側とも仲良くできるのか全く理解できない」と言われた気が…まあそれ考えてみりゃ最悪な話だけどな。
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お気楽極楽基本ポジティブ思考。
紙とペンがあれば必ず何か書かないと気が済みません。
最近歌うのが楽しすぎる。いやもともとだけど。
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